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「シン・ゴジラ」批判

 まず前提として、庵野秀明監督による「シン・ゴジラ」は、日本で12年ぶりのゴジラの新作として公開されているが、その内容はいわゆる「ゴジラ映画」ではない。単体の巨大な怪獣が現代の日本に出現するというシチュエーションSFであり、怪獣災害シミュレーション映画である。そうしたことをまず理解した上で、なお「シン ゴジラ」を非常に残念な映画と感じた。インターネットでの評価は概ね好評〜絶賛といった雰囲気であるので余計なことと思う。が、一介のゴジラファンとしては別の意見を持つ者もいるということを示しておきたく、拙文投稿する。

1. 「ゴジラ映画」とは 

 ファンの方は当然ご存知の事と思うが、「ゴジラ映画」というのは厄介なもので、映画のようで一般的な映画ではない。60年以上に渡り何世代もの熱狂的なファンに愛されてきたシリーズであり、時代によって様々な異なるテーマが存在する。そして厄介なのは、一つ一つの作品が完結した一本の映画として評価されず、常にあるべきゴジラ像を表しているか議論されていることである。曰く、「ゴジラ原水爆の悲劇を象徴している、反核のメッセージ映画であるか」、曰く「子供向け映画に堅苦しいメッセージは要らない。人間ドラマは不要だ。怪獣が出てきて暴れる時間が長ければ長い方が良い」、曰く「着ぐるみの取っ組み合いなんて子供だましだ。なぜハリウッドの娯楽映画のように作れないのか」、曰く「自衛隊や戦車が出てきて活躍するシーンが見れれば満足」・・・。こういったこだわりの強いオタク達によって「ゴジラ映画」としか言いようがないカテゴリの作品として良否を問われてきたのだ。

 したがって、ゴジラの新作である「シン・ゴジラ」は、本来は「ゴジラ映画」として評価されるべきものだ。しかし本作は前述のように異質な作りとなっており、これまでのゴジラシリーズの流れを一切汲んでおらず、独立した一個の作品として作られている。「ゴジラ映画」として作られていない。これまでのシリーズは時代の要求に沿って形を変えてきているものの、基本的な物語は1954年版「ゴジラ」(=第1作、”初代”ゴジラ)の続編として製作されているが、本作は全く新しい怪獣が日本にやってくる物語であり、怪獣はゴジラと呼ばれているが、ゴジラのようなものとしか形容できない。似た構造としては、1998年ハリウッド版「GODZILLA」(=近年公開されたものではなく、エメリッヒ監督版)にて、イグアナのような巨大生物がゴジラと呼ばれていることが挙げられるだろうか。

 ある意味、正統な”初代”ゴジラのリブートとも言える(98年版も同様)が、その為、冒頭述べたような怪獣災害シミュレーション映画としての評価と、「ゴジラ映画」としての評価の2方向から批評されている結果となっている。

 私自身、一人の映画ファン、ゴジラファンとして本作を鑑賞し、映画として、「ゴジラ映画」として、両面から思うところがあった。

2. シン・ゴジラの良かったところ 

 映画としての評価として、巨大生物が現代の東京に上陸したらどうなる? というシチュエーションものとして、政府、各省庁、都政の描き方が細かく、入念に調査したことが窺える。人間ドラマを極力排してシミュレーション映画として淡々と描く前半部分は、作者の一貫した姿勢と伝えたいテーマは明白であり、ありそうでなかったジャンルの作品として新鮮だ。また、同じ庵野監督の「新世紀エヴァンゲリオン」に登場する”使徒”を連想させるゴジラのキャラクターデザインや描写も恐怖や絶望感を煽るものとなっており、中盤で放射熱線を吐く場面や東京が火の海となる場面は(「エヴァ」での既視感はあるが)迫力ある名場面となっており、邦画の特撮シーンとしては随一と思う。

 また、ゴジラに対する最初の攻撃を開始する場面や、閣僚会議の場面などに挟まれるブラック・ジョークにはクスリとさせられる。

 その他、ゴジラと思わせていた巨大生物が四つ足で地面を這う不気味な生物だったり(往年のファンはアンギラスを連想したのではないか?)、かと思わせてゴジラの姿へ”進化”したり、エンターテイメント的な意外性は大いに楽しめた。

3. シン・ゴジラの(映画として)悪かったところ 

 内容が多い為、項目に分けた。 

■工夫が乏しい音楽

 どのスコアも「エヴァ」や「新劇場版エヴァ」で既に聞いたような曲。あまつさえエヴァのサントラをほぼそのまま使用していたり(しかも結構しつこい)。

 伊福部の曲を数点流用しているが、なぜフルオーケストラで新録しないのか?

 そもそも、本作の内容では伊福部の曲は浮いているように感じる。これまでのゴジラでも別の音楽監督が担当してゴジラシーンのみ伊福部の既存の曲を流すということをしてきていたが、成功しているとは言い難かった。本作も御多分に洩れず。

 また、使い方も上手くない。映画の基調はある意味で単調な政治、軍事ドラマの為、音楽で感情に訴えず背景音のみの無音で描くのは (自主映画のようではあるが)テーマが際立ちそれなりに効果を上げていると思うが、だからこそ唐突に流れる音楽(会議シーン、怪獣の登場シーン)に取ってつけたような不自然さが目立ち、特に怪獣シーンのリアリティを削いでしまっている。

■娯楽性の欠如

 大きな問題点である。良いところでも述べたが、シチュエーションものとして徹底したシミュレーション映画となっている為、前線での出来事を最大限把握している登場人物しか登場しない。彼らが他の人物(と観客)に向けて早口のセリフで全て状況説明を行う為、こちらも閣僚の説明を聞いた総理大臣よろしく十分に状況を把握した状態で観劇に臨める為、おおよそパニック映画的な意表をつく展開が訪れず(冒頭のアンギラスは除く)、全て想定内の展開を最後まで見せられる。いわば説明書通りに複雑なプラモデルが作られていく過程を解説付きの倍速で流したニコニコ動画のような内容である。製作者のやりたいことは理解できるが、私は面白いとは思えなかった。この点は趣味の問題もある為、面白いと思う層がいることは認識しているが・・・

■無理のある設定

 ゴジラという確固たるシリーズにおいて前作を完全に無視してリブートすることは不可能である。何故なら、劇中の設定ではゴジラを無かった事にできても、我々の記憶からゴジラを無くすことはできないからだ。現実にはゴジラは皆が知っており、ネットで画像検索すればその姿が何万件も羅列されることになることとは、別の世界の話と考えなければならない。それはリアリティを基調とする映画としては大きなハンディである。実際問題、そう言った”見立て”をしながら見る必要がある。

 ただしこの点に関しては、日本での前回のゴジラから12年も経っており、またそれ以前も既にごく一部のコアなオタク以外は認知していない状態が長く続いていた為、多くの観客 (特に、2016年現在で10代~20代の若年層) は、そう言った”見立て”が殆ど要らなかったという皮肉な現実が味方したのかもしれない。

■政治的なニュアンスがあること

 この点は賛否あるかもしれないが、現代の日本を舞台に描くからといって、現代の日本のあるべき姿を示唆する必要はないのではないだろうか。娯楽映画にイデオロギーが入るのは興ざめだし、薄気味悪い。”日本の”が”人間の”程度であれば、イデオロギーとまではならない。しかし本作では3.11、福島原発事故を下敷きに”日本人としてあるべき(だった)姿”を中盤から後半にかけて登場人物たちに代弁させる。すなわち、「福島原発は作業員や自衛隊の有志が命を捨てて冷温停止すべきだった」と言わんばかりである。人々は東海村の臨界事故を忘れてしまったのか?

 第一、3.11と福島原発事故を一緒くたにしてゴジラに暗喩させているが、この二つは全く別種の性質の事象であることをミスリードさせていないか? 3.11は自然現象であり、天災だが、福島原発事故は完全な人災(政府や東電関係者は”自然災害”を起点とした”想定外”の事態によるやむをえない事象などと表現するかもしれないが)である。ゴジラは、初代ゴジラ本来の由来によれば原爆実験という”人災”により発生した怪獣=”天災”であるが、本作はその点は暗示するにとどまっており、ゴジラそのものは生物という点から”天災”のように見える。これは観客の無意識に訴えるプロパカンダのようで気味が悪い。

 また、原発の暗喩として描かれるゴジラの体内から新物質が発見され、「脅威であると同時に福音でもある」と表現される。これは福島原発事故を想起させる映画としては公平性に欠いた示唆ではないか。原子力が未来の日本にとって福音であるかどうかはまだ分からないのだ。

4. シン・ゴジラの(「ゴジラ映画」として)悪かったところ

■音楽が伊福部昭ではないこと

 伊福部昭さんが没した今、仕方がないことだ。しかし劇場で伊福部氏のフルオーケストラで新録された新曲を聴けていた90年代の「ゴジラvsモスラ」や「ゴジラvsメカゴジラ」は、映画としては駄作であったが、間違いなく映画音楽は芸術作品であった。ご存知ない方はYoutubeなどで伊福部昭のサウンドトラックを、できれば映画一本分まとまっているもの、前述の「vsメカゴジラ」や「vsデストロイア」を聴いてみてほしい。オリエンタルで原始的なものとしてゴジララドンモスラが動物霊のように現れ、蹂躙し、去っていく。そして焼け野原となった街に鎮魂歌が鳴り響く。そんな情景が想起される名作だ。

 本作はゴジラ登場シーンやエンディングに一部、伊福部のオリジナルトラックを使用しているが、伊福部の曲は映画一本通しての総合芸術であり、部分的に使用してしまっては、単にバラエティ番組的になってしまう。更に残念なことは、本来の音楽のテーマを無視した用い方であった所だ。平成版ゴジラのテーマである”ドシラソラシドシラ”はヒーローとしてのゴジラを象徴した曲であり、本作のような脅威としてのゴジラ、不気味なゴジラにはそぐわない。ゴジラが登場した途端この曲を用いてしまうセンスの無さを私は快いとは思わない。

■怪獣ドラマでなかった所

 映画の性質上仕方ないと思う。ただし、ゴジラシリーズでは概ねゴジラが主人公の怪獣ドラマであった。ゴジラは敵を憎み、人を憎み、また時には子供を愛し、涙していた。映画としては異質だが、それが「ゴジラ映画」というものだ。ゴジラファンとしてはそういうゴジラを見たかったというのが本音である。

ゴジラのキャラクター性が希薄になっていたこと

 この点が最も複雑であるが、1954年版の「ゴジラ」は反戦/反核がテーマの一つであった。その後のゴジラは気楽な子供向けであり、原子力エネルギーは単なるゴジラの餌になったが、原子力エネルギーで生きている生物という異様な設定は残った。それは後年の「ゴジラ対へドラ」に登場するへドラ(ヘドロを食べて成長する怪獣。当時、社会問題化していた公害を扱っていた)にも生きている。ゴジラは、人間の過ちによって生み出されたというキャラクター性を持っている。その点はゴジラを名乗る以上は明示しておいて欲しかった。

 ただし、完全にファンタジーになってしまうが・・・

5. まとめると

 映画としては可否あるが支持する層が存在するのも理解できる。ただし、手放しに褒めるような内容ではないだろう。昨今のネットでの熱狂ぶりには不思議な思いがする。

 また、ゴジラ映画としては残念ながら良いところは見つけられなかった。ハリウッドの近作「クローバフィールド」や「パシフィック・リム」「ジュラシックワールド」のような”怪獣モノ”としては野心作かと思うが、ゴジラゴジラである。名作シリーズにリスペクトは必要ではないだろうかと思う。

 

以上